「まつり」という言葉について考える

  • 2010.07.06 Tuesday
  • 07:11
『まつり』【祭(り)】

/昔遒吠仕して、霊を慰めたり、祈ったりする儀式。
また、その時に行う行事。〔広義では仏事をも指す〕

『おまつり』

記念・祝賀などのために行う行事〔広義では、商店がある時期に行う特売宣伝をも指す。例、「婚礼祭り[=家具特別セール]」〕「港祭り」

三省堂 新明解国語辞典 第四版より

「めでたい」と「おめでたい」(いやみな意味もある)とよく似た関係性。ただ「お」が付くだけで受け取り方にこれだけ大きな違いや幅が生まれます。これも日本語のおもしろいところ。


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『まつりと、お祭り騒ぎはちがうんです』

聞きたかった言葉でした。

この言葉を聞くことができたのは、
8月頭に迫った福島県で開催されるイベントの打ち合わせに、
先日、益田市の奥深い山間に住む太鼓打ちの方を訪ねたときのこと。

本題の打ち合わせもそこそこに、酒盛りに突入し、かなり酔っ払いながらも石見神楽も舞う太鼓打ちさんが真顔で打ち出した言葉です。


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ありがたいことにどう間違ったか仕事の関係で、
イベントの命名をこんな僕に託していただけることがありますが、
今までクライアントの要望があっても意図的に「○○まつり」というタイトルを避けてきたところがあります。

それはなぜかというと、

僕の定義している「まつり」は、様(さま)でいうとほぼ辞書に書いてある“屐

でももう少しだけ心の内に進みたい。

「まつり」とは、人々が集まって、共に汗水を流し、皆の生命を繋ぎたいという願いのために心血を注ぐ時と場。そこには実直な祈りと敬い、家族や地域に対する想い、そして感謝と喜びの分かち合いがあり、参加する人たちが共有できる心情や意義、目的が確立されたもの。

そうでないと決して「まつり」とは呼べないし、呼んではいけないと考えていて、間違っても欲のためになんてあっちゃいけないと思うのです。

つまりは本来「まつり」ではないのに「まつり」と名づけられてしまったイベントは本当に不幸です。やる方も来る方も。


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その後も太鼓打ちさんは続けます。

「僕は貧乏はしているかもしれませんが、僕が太鼓を打ち、舞うと皆が喜んでくれる」
「だからこそ皆の気持ちや願いが届くように技を磨き続けることができるんです」。

もうこれでもかというぐらい曇りのない笑顔。


常に他人の願いと想いを溢れんばかりに背負い込んで舞台に立ち、心血を注いだ技で太鼓を打つもんだから人の心が動かないわけもなく、結果この人の行くところではどこでも「まつり」になってしまいます。


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僕が住んでいるのは出雲で、しかも日本中から年に一度、神々が集うという出雲大社のすぐ近所。

渋谷でも池袋でも名古屋でもありません。
(都市として分野の違う役割を担っている地域と考えるからで、決してこれらの地域をバカにしているのではありません)

出雲は日本の中でも代表される信仰の聖地と自負すればこそ余計にでも「まつり」に敬意を捧げ、この言葉の重みと深みを大事に伝えなければいけないと思うのです。

切実な願いごとを携え、不況の中でもわざわざ貴重なお金と時間を叩いて、陸の孤島とまで呼ばれ、47都道府県でもどこにあるのか知らない土地癸韻傍韻島根県にある、この出雲をめざして足を運んでいただく本当に多くの人たちのためにも、です。